教科書騒動で感じたこと、などなど
教科書騒動とはなんなのか、昨日のやりとりの報道を見ていて色々と考えたのですが、あの教科書*1と、それを執筆した人達、広める人達への不快感や不信感は何なのか共通する物が段々見えてきました。
一言で片付けるならば、彼らは、おしなべて自分の言葉に責任とろうとしていない。他人など口先でどのようにでもなるという他者をなめた姿勢が如実に表れているからに他ならないということです。
これは、初めて「自虐史観」と言う言葉や「自由主義史観」と言う考え方に触れた時から思っていた事でもあるのですが、「他者は騙せる物、騙せない他者は全て敵」と言う歪んだ情念やそれが故の自己への無責任さ*2、そして何よりも「ことば」と言うことを軽く見ている事に対する絶対的な不信感と不快感でもあります。
この事は今回「つくる会」教科書を推進し、又青少年の「健全化」や「環境浄化」にも固執している石原都知事・松沢神奈川県知事・上田埼玉県知事・中田横浜市長、そして今回政治的な権力を無限大に行使して「つくる会」の歴史教科書を採択させた山田杉並区長などの「新保守系首長」(仮称)にも共通して言えることでもあります。
彼らは、おしなべて自分の言いなりになる・騙せる「味方(もしくは奴隷)」と、言いなりにならない・騙せない「敵」に他者を単純化して分けて、そして「味方」だけで自分の周りの世の中を構成して自分の思いどおりに動かそうと腐心している。
これは、騙される・騙されない我々の側から見たら非常な死活問題で、このようなエゴの塊の人間に自分が(生きるに忙しくて)やるにやれない「行政」と言う生活に密着したものを左右される訳で、はっきりいえば、この手の人間に生活を左右されるのは面白くない。と言うより現在の暮らしと将来の希望を奪われるかのような絶望と怒りすら感じる。
つまりは、他者を動かすには不適格な人間たちが他者を操作するためになりふりかまわず反則上等で動いた。*3と言うのが、この「事件」の本質で、それが故に私は危機感と怒りを持ってここまで書いたりだなんだとしてきたのではないかと思う。
そして、私がネット右翼や「嫌韓厨」に代表されるプチ右翼にたいして持っている不快感も同じ所から来ています。
彼らは自分の吐いた言葉に一切の責任を持たない。他者を「敵」と「味方」でしか区分できず、かといって他者とも自己とも真剣に向き合えないから、「敵」に対して揶揄や駄々をこねることで潰すことしか思い付かない。
会話のキャッチボールという物をしようという気概すら無い。
このような無責任な人達*4が世の中にのさばりつづけるとしたら、政治的に云々以前に道義的に社会が崩壊してしまう、そういう危機感を私はもっています。