高遠菜穂子さんの講演会(7日昼微修正)
偶然、イラクで人質になり、不条理に世間から叩かれた後もめげずにイラクの民間支援に活躍されている*1高遠菜穂子さん( http://iraqhope.exblog.jp/ )の講演会があると聞いたので、行ってきました。
自分の活動についての話かな。と思っていたのですが、そうではなく、非常にシビアなイラクと関係諸国の情勢に関するブリーフィングと言った方が適切な内容で、非常に貴重な話を聞けました。
「録音及び撮影禁止」であったので、講演を聞きながらメモを取った*2内容と目で見てきたイラク現地で記録された映像(殆どがCD-RやDVD-Rに書き込まれて米軍のガサ入れを免れて高遠さんなどの手に渡った動画です*3)を基にしますので、若干正確さには欠ける所があるかもしれませんが、なるべく多くの人が共有した方がいい内容が相当ありますので、メモなどから再構成してブリーフィングのサマリーを書きます。
戦場や戦災にあって殺された民間人などに関しての描写をなるべく見てきた記録に対して忠実におこないますので、一部、人によっては吐き気などを催すような不愉快かつグロテスクな内容が含まれます。その点御承知の上で続きをお読み下さい。
- 米軍が学校を占拠して軍事拠点とし、教師や子供に対してしつこく持ち物検査をおこなったために、親の間で不満が溜っていた
- 不満を受けて部族長と米軍が交渉したが、米軍が拒絶。
- そうしているうちに、若い米兵が子供達にヌード写真を見せびらかすなどしはじめ、イスラム的に徹底的に侮辱されたと考えた人達が不満を爆発、2003年の4/20に米軍に対する抗議デモを行った
- それに対し、米軍はデモ隊への発砲で答えた。
- その為死傷者が出てデモ隊は逃げたが、米兵はデモ参加者を民家まで追いかけ、射殺するなどして、一気に緊張関係が出来た
- 殺された民間人の家族を中心に武装決起、米軍とファルージャの住民の間で戦闘状態に入る
- その結果、米軍は陸空から武装・非武装を問わず民間人を無差別で撃つ状況となった
このような経緯で「憎しみの連鎖」がはじまり、最初のデモから一週間もしない内にファルージャ住民が「殺し屋米軍は出ていけ」と言う横断幕を掲げてデモを行う状況になり、それに対して米軍の無差別銃撃をおこない、ファルージャ住民は旧イラク軍倉庫などから持ち出した武器で撃退するという泥沼状態に陥った。
当時、高遠氏がファルージャに行くと「ここで、昨日米軍の戦闘車両が重を乱射して7人死んだ」「なぜ報道されないのか?」「マスコミがきていないのにどうして報道されるのか?」と言うやりとりがあり、高遠氏はファルージャをイラクでの活動の重要地点にする事を決めたと言う経緯がありました。
その手段は、
- 賞金などの金で米軍への攻撃を煽る
- 周辺国からの武器提供
- 米軍への憎しみを言葉巧みに煽って自分の組織に組み込んでしまう
事が代表的なものであった。
- 2004年4月に高遠さんたちが誘拐されてから、外国の諸勢力が競って政治的目的での誘拐を始め、それによって、外国勢力の目的がイラクの人々にばれて、やっと外国製力との離反が始まった。
何故かといえば、外国勢力に誘拐されたのは外国人よりもイラク人の方がずっと多く、しかも殺された人数もイラク人の方が多かったからである。
- 2004年8月のバグダッドでのキリスト教会連続爆破事件は、外国勢力の企みを更に裏付ける物となった。何故ならば、イラクの実態は多宗教国家であり、キリスト教とシーア派とスンニ派が共存している状況だったのでキリスト教が狙い撃ちされたことによって、イラク人以外の勢力が暗躍している事が誰の目にもあきらかになったからである。
レジスタンスと米軍は和平交渉をはじめつつあるが、うまくいっていない。
- IED(仕掛け爆弾)で死んでいるのは、殆どがイラクの民間人であり、軍人は割合から言えば僅かである。
- 「バトス集団」の拷問・虐殺の方法は、ドリルや電気ムチなどで拷問を行った末に死んだら路上に放置してしまうという、残虐きわまりないものである。
- こういう中、欧米のメディアが取材に入ると、住民から「スパイだ」と疑われて取材を拒絶されたが、アジア人からの取材に関しては住民は歓迎していた。
- しかし、ファルージャで住民と話していると米軍から威嚇射撃をうけたり、帰路で露骨な尾行をつけられるだけではなく、装甲車を横付されて銃を突き付けられどなられながら取り調べを受けることが日常的にあった。
- 他のNGOでは、ビデオカメラで撮影していたところを米軍兵士に射殺された事例もあった。
- そのうち、日本人のNGOが宿泊しているほてるに頻繁に米軍がきて、パスポートをチェックし、目的をホテルに問い質す状況が日常化した。
「米軍には近付くな」がNGOやジャーナリストたちの間での合言葉になった。
- そのような中で、日本人ジャーナリストが米軍に停められ、通訳とともに後ろから黒い袋を被せられて手錠をかけられて収容所に連行され、「敵戦闘員」と言う札をかけられて拘禁され、ヨルダンとの国境でパスポートだけ持たされて解放されたという事件が2003年の6月にあった。共同通信が報道したが、日本では話題にならなかった。
- そのように報道が封鎖された後、米軍は2003年12月23日にドーラで「鉄槌作戦」と言う掃討戦を始めた。
- 午後十時から朝六時まで四夜に渡って交戦が続き、空からは花火のような物が落ちていった。
- 「花火のようなもの」はクラスタ爆弾の子爆弾であった。子爆弾は中に鉄片が仕込まれており*4、クラスタ爆弾の実際の殺傷範囲は半径5kmほどあった。
- クラスタ爆弾は不発率が5%ほどあり、その状況を取材したマーク・マニング氏は「カンボジアの地雷源にそっくりだった」と述懐している*5
- 高遠氏が行っている「ファルージャ再建プロジェクト」の人も、2005年9月にビデオ撮影していて射殺された。撮影に成功しても米軍に没収される可能性が高いので、映像の保全に苦労している。イラク国内でも「報道の見えない壁」が沢山ある。
- ファルージャの掃討戦について。
一回目は2004年の4月だった。ファルージャ中央病院の発表によると、民間人の死亡者は700名以上。サッカー場を墓地にするしかなかった。
- ファルージャ市内では、教室が戦場になった。米軍が機関銃などを教室の中に置いたからである。
- ここで、ファルージャ郊外からの当時の映像が流れて、遠くで煙が立っていたが、これに関してはファルージャ市内への爆撃によるものであると解説があった
- ファルージャ市内から疎開する物が続々と出た。最初は郊外にNGOが提供したテントや鶏舎などを使って暮らしていたが、疎開する人数が多くなり、しまいにはバグダッドにまでファルージャからの疎開者が多数出るようになった
- このことによって、初めてファルージャで何が起こっていたのかがイラク国内外で明らかになり、バグダッドからファルージャへの支援が始まったが、「民家などに武装勢力がいる」と言う誤った情報によるピンポイント爆撃で多くの民家が壊され、死傷者も多数出た。
- 米軍はモスクを重要な攻撃目標とした。第一回の掃討戦の時点で、ファルージャにある70のモスクのうち39のモスクが破壊された。
- イラク全土で米軍などが築いた検問所での民間人の殺害があいついでいる。
- 米軍の「止まれ」と言うハンドシグナルは、イラクでは「歓迎する」の意味、銃を上に向けて発砲するのは、イラクでは祝砲の意味。こういった文化のギャップによって多数の民間人が殺されている。
- 上記の理由で車が止まらないと自動車爆弾と誤認して車を撃つのも日常化している。
- イラクから帰ってきた多くの兵士がPTSDや「民間人を殺してしまった」と言う後悔の念になやまされつづけている。
ここで、歩いているときにヘリから狙撃されて車の下に逃げ込んだが、結局車を貫通した機関砲弾を浴びて殺された人の写真が出ました。大きさから見てアパッチの30mm機関砲弾(徹甲弾)と思われる砲弾が車を屋根から床まで貫通し、その下が血の海になっていました。
- 結婚式の祝砲を攻撃と誤認して47名が殺された事件が世界的な問題になりましたが、そこに浴びせられたミサイルは百発以上にのぼったとの事です。
事件の直後の葬式を取材した映像が流れましたが、殺された新郎新婦、親戚?の子供達、家族、そして、遠くまで続く毛布にくるまれた遺体たち…そして、遺体にすがりついて「アッラーアクバル!」とやり場の無い怒りを叫ぶ遺族たち…これが、あの事件の真実であると誰もが受け入れざるを得ない内容でした。
- 第二回ファルージャ掃討戦(2004年11月)に関して
このときは、米軍だけではなく、イラク軍とイギリス軍も動員して、ファルージャと外部とを徹底的に遮断しました。
第一回掃討戦の時は限定的ながら許されたNGOや赤新月社の支援も、検問所で追い帰されたり、車両が撃たれたりして、完全に入れなくなりました。
- 生き残った人の証言では、米軍はまずファルージャ中央病院を制圧し、医療関係者や患者を逮捕し、その後市内の徹底的な掃討に入ったと言うことのようです。
- そして、残ったふたつの病院を徹底的に爆撃、破壊し尽くしました。
- 11/15にアメリカ軍は掃討戦の終結を発表しましたが、その時点でも空爆は継続していました。
- ファルージャの人々は難民となった。
- その後、ファルージャに入ることをゆるされるようになったが、入るときに携帯電話・カメラ・ビデオの持込が禁止されました。
- 帰った人の話だとその時点で市内はしたいの山で屍臭が漂っている上に瓦礫の山になっていた。
- その後、米軍は77体だけ遺体を避難民に引きわたしました。その時の映像とその後NGOが回収した遺体の映像(動画)がでましたが、多くの遺体にはウジがわき、ある遺体は黒焦げになり、ある遺体は服が綺麗で体だけが焼け焦げ、ある遺体は腐らずに、かといってウジも湧いておらず白い、ゴムのような粘液?に包まれた尋常では無い状況でした。
- 従って、(撮影が出来なかったのが残念ですが)米軍が第二次ファルージャ掃討戦で何らかの化学兵器を使用したことは確実です。映像を見た専門家の話では白リン・黄リン・マスタードガスなどが使われているようだとのこと。しかし、最後に出た「白い死体」については、全く別の化学兵器による死傷ではないかと私は推測しています。*6
- 結局、最初に引きわたされた77体の遺体のうち、身元がわかったのは身分証明書のあった三体だけだった。
- 第二次掃討戦での民間人の死者は6,000人以上と言われている。
- 選挙
マスコミではスンニ派がボイコットをしたということであるが、実際にはスンニ派の人が多く済む地域などで米軍が装甲車や戦車から銃や戦車砲を乱射したり、路上で撃たれて死にかけて助けを求める人を戦車で轢きつぶす(ぺちゃんこの遺体の映像も複数出ました)などしていたため、出るに出られなかったし、「民主主義」に対する不信感が強まってしまったと言うのが真相のようです。
- その後
ファルージャに出入りができるようになってから、NGOが約700体の遺体を回収したが、そのうち504体が女性と子供であった。この事は国連に報告したが、黙殺されている