月よお前が悪いから…のアーカイブ

http://d.hatena.ne.jp/artane/ がサーバの関係で消えるようなので、アーカイブします。基本更新しません。

日野市の小学校で98年に君が代伴奏拒否をした教員、名誉回復ならず

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20070228k0000m040095000c.html

君が代伴奏拒否:卒業、入学式シーズン目前の判決に憤り

東京都内の公立小学校の女性教諭(53)の訴えに「法の番人」は非情だった。入学式での「君が代」ピアノ伴奏拒否を巡る27日の最高裁判決。卒業式や入学式のシーズンを目前にして懲戒処分を合憲とした判決について、教諭側は「政治的な意図を感じる」と憤りながらも、理解を示した反対意見に一筋の希望を見いだした。【木村健二、木戸哲】

最高裁に上告してよかった」。判決後、都内での記者会見で教諭はそう切り出し、2審判決の破棄、差し戻しを求めた藤田宙靖(ときやす)裁判官の反対意見を読み上げた。

しかし、判決については「なぜこの時期なのか。自由に心の表現ができる音楽を否定し、権力の道具におとしめるもの」と語った。伴奏を命じる校長らからの執ような圧力からストレスがたまり、体調を崩して退職も考えたこともあったが「絶望してはいられない」と気丈に訴えた

弁護団の吉峯啓晴弁護士は憲法論にならない空虚な主張を繰り返している」と判決を批判。日の丸・君が代の「強制」を巡っては、東京や神奈川、広島、福岡などで500人超が違憲訴訟を起こしており、吉峯弁護士は同種訴訟への影響について「判決は論理性がなく、先例性は持たない」と話した。

都教委の徹底指導に反対する教職員らは、今月17日に対策本部を設置。03年10月の都教委通達に基づく強制を違憲と判断した東京地裁判決(昨年9月)を盾に、これから迎える卒業式や入学式に臨む構えで、通達が出る前のケースを判断した今回と通達以後では事情が異なるとみている。

毎日新聞 2007年2月27日 21時27分 (最終更新時間 2月27日 21時56分)

この問題に付いてblogやmixiなどで起きている論調を見ると、判決の表層的な部分に同調するものが多く、「業務命令に従えと言う業務命令を拒否し入学式を荒したのだから、処分を受けるのは当然だ」と言う、極めて表層的な逃げ文句に終始している東京都の主張に「釣られて」いる意見が多く、頭が痛くなっているのですが、そんな簡単な問題ではないでしょう。

大石英司氏のblogの書き込みへの賛同に近いコメントに反駁する形で書いて*1、数回やりとりしてみましたが、議論の論点自体がかみ合わない訳で(;´Д`)、こちらに書いて、論点を明確にした上で場合によってはblog間の議論の違いを活かしてみるのも面白いだろうと思い、こちらの方で調べてみた、職務命令を行った東京都・経緯とか原告側の訴訟に至る経緯とかすこしまとめて見る形で書いていこうかと。

まず、経緯としては当時の弁護士による講演内容に詳しい訳ですが、再度見直すと、大体以下のような流れのようです。

  1. 国旗国歌法」(案)を巡って「本当に強制はしないのか」と言う点を中心に、法律が拡大解釈されて業務命令や行政執行の根拠にされるのではないかという懸念が非常に広い範囲であり、それに基づいた国会での議論に対し、当時の内閣は「(この国旗国歌法は国歌の斉唱や国旗の形容に賛同することを)強制する物では全くない」と言う見解で押し通して立法に向かっていた。
  2. その真っ只中に、日野市の小学校で、前年度までテープによる伴奏で起立等も任意であった「国歌斉唱」について、音楽教師にピアノ伴奏を行わさせると同時に、起立や斉唱などについても「適正」であるかどうか議員など交えて「監督」する形で式が執行されるように業務命令が発生した。
  3. 当該の音楽教師は、キリスト者であったこともあり、信条的に受入れ難い。などと業務命令を拒否。
  4. それに対し、1999年6月11に東京都教育委員会が戒告処分を拒否した音楽教師に行った
  5. 音楽教師の加入していた日野教組側が不法な命令と処分を撤回するように、日野市及び東京都に求めて交渉を繰り返すが平行線を辿り、裁判に討って出ることになる。*2
  6. 戒告処分を受けた音楽教師は、業務命令の行われ方自体が違憲性のある、不法な物であり、また、戒告処分の理由が「職務命令に従わなかったことで(東京都教育委員会の)信用を失墜した」と言う理由自体が無効であるとして、戒告処分自体が公務員や行政に憲法遵守の義務があるとする憲法99条や地方公務員法に著しく抵触する不法行為で無効であり、そもそも業務命令の執行自体が違憲で無効であることの確認を求めて裁判を起こした
  7. それに対し、一審・東京地裁(山口幸雄裁判長)は、「公務員の思想や内心の自由は公共の福祉の見地から制約される」「行政命令及び処分の内容は憲法19条に抵触するものではない」と言う論旨にて、訴えを棄却*3、原告側は上告しました。(2003/12/03)
  8. 上告審である東京高裁はたった一回の審理で上告棄却の判断をだし、一審判決を支持しました( 2004/07 )。これを受け、最高裁に上告。
  9. 上告先の、最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は2007年2月27日に上告の差し戻しでは無く、棄却という判決を出した。但し、全員一致の結論では無く、一名は二審判決破棄・東京高裁に差戻しの反対意見を出していた。


このような経緯だった訳ですが、論点が

  1. 業務命令が憲法及び公務員の憲法遵守義務に反する不法な物だと思ったことによる命令執行拒否への処罰や行政命令自体が憲法的な観点から適法かどうかと言う所から、一気に
  2. 「個人の内面の問題」
  3. 「内面の自由は(公共の福祉という言葉にすり替えて)上司の命令よりも下位になり、制限される」
  4. 「業務命令は単なる演奏命令だったのだから、拒否に対する処罰は妥当」

と言う、非常に小さな問題に落とされてしまったあたりには、「まず、結論ありき」のこじつけが強く感じられてしかたがないです。

このような既成事実の積み重ねで、「踏み絵」を作った側が「踏み絵ではない」と主張すればなんでもありと言う社会風潮が定着している訳で

これが、憲法…というか日の丸・君が代…問題だから逆に直視しないでいる人も多いのではないかと思いますが、事の本来の問題は、

  1. 仕事などで違法なとや道義上よろしくないことを強要された事を拒否した場合に、果して無制限に処分を受けることが妥当か
  2. 子供が体罰やいじめなどを受けている理由が、教育的見地ではなく教育委員会や校長などの(私的な)見解に反する行動や言動を本人や家族が行ったものであることによるばあい、それは不法行為にならないのか?

と言うあたりにくる訳で、極端な例を出せば、

上司などから人殺しをしろと言われたので「人殺しはいくらなんで もよくないだろう」と拒否したら処罰されたが、
「公共の福祉」によって「良心の自由」や「信教・思想の自由」などの内面の問題は制約されるのだから、拒否した方が悪い。と言う理屈で片付けられた

これは果して法律論として正当かどうか…まぁ、件の業務命令の背景には「お上のいうことはご無理ごもっともで人殺しだろうがいじめだろうがやらなきゃだめだ」と言うあたりの理屈が前提としてあって、それは前の大東亜戦争のときに(そして、それ以前の江戸時代の徳川独裁政権のときの武家社会に於いても)一貫して「正義」とされた事であり、そのような「上意下達」を批判的に考えずに続ける事が、果して何を招いたか。社会の破滅と荒廃と腐敗では無かったのか…そのような辺りに思いを寄せてしまうのですが、どうも、世情は「長い物に、巻かれていろ」と言う感じで思考停止してしまっているようで┐(´ー`)┌

*1:まぁ、元書き込みの数行から一気に飛躍させるのもなんだろうか…と思っていたら、丁度「釣れて」くれた方が現れたので、それに乗っかる形で私も釣られて大石氏の記述の論旨への反駁を展開したみた訳なのですが(^_^;

*2: See: http://www4.ocn.ne.jp/~ttutokyo/tanso/tansohino1nen.htm

*3: http://www2.tky.3web.ne.jp/~norin/kimigayo-tokyocourt.html の記述が詳しいですが、ここでの見解にほぼ同意、特に《一切の証拠調べをしないで即日結審したのはきわめて遺憾。『職務命令は違法でない』という判決の結論だけが一人歩きし、都教委のファッショ的体制によって教員の正当な権利が踏みにじられることがないように願う》と言う原告側弁護士の発言の件には非常に強い共感をおぼえる。