左右ちがえどバ○は○カ。
この、単純さと表裏一体の一級の詭弁術、私が最近Disってる某氏の一派と共通するところがかなりある。
彼(ら)が存在を認めない物は世に存在せず、存在を認める物はそこになくても、ある。
そして、そこに示し合わせて「間違ってる」物は・意見は世に存在してはならない。なぜならば、人々を「間違った」方向に誘導するから。
そういう強引さは、ある意味「強さ」ではあるのですが、しかし、強いが故に多くの出鱈目を生み出す温床になっているし、「間違い」に対比させる形で強く示される自分の見解が「正しい」かといえばそうとは限らない場合の方が多くて、その正誤もさることながら自己の無謬性を基盤にして相手の「間違い」を「正す」物だから、自己に過ちがあっても認めない。専ら、相手を論破することで自己の正当性を根拠付けようとする。
これほど、浅ましくもおぞましい行為は世にそんなにはなく、実際多くの思想が行動が自己の無謬性と相手の論破のためにどれだけの残虐な行動を行い、それが勝者の歴史の中で許され・敗者の歴史の中で糾されたか。*1
まぁ、いい加減我々は歴史から学んだ方がいいように思いますけどね、この手の詭弁護士*2に振り回され続ける時間も道理もない。