で、ぶっちゃけ庵野秀明が「序」で語ったことは?
庵野秀明本人が公式に語っているように「決意の作品」であることは確か。
では、何の決意か?
それは、身も蓋もない「エヴァ」を再びやらざるを得ない理由と言い訳と、そして、開き直った決意。
…詳しく考察してみます
基本的なフォーマットは「なんでこれをやるに至ったか」と言う事をシンジと言うキャラに投影してグダグダと語っている。と言う意味では前を踏襲(ふしゅう)しています。
しかし、前作とは大きな違いが見られる。
それは、
- 前作では主要キャラクター全てが庵野秀明の内面をスライスした分身であった。辛うじてミサトにだけは他者性の匂いがあった。
- 本作では主要キャラクター全てが他者性を持っている。正確に言えばシンジ-ゲンドウ-レイは本人・もしくは両親と息子であるが、ミサトは明らかにそことは関係のない他者でありシンジに信頼をおく者=恋人というよりは妻に至る者*1のポジションにいる、ゲンドウはゲンドウで明示的にシンジとレイを操作している。前作のゲンドウがあくまでも子供の持つ承認欲求のみに依存していたのに対して、本作のゲンドウ(とリツコ)は子供の持つ親への承認要求と異性全般への性欲両面を巧みに使い分けて望む結末に導こうとしている。つまりは、本作のゲンドウの方が数段腹黒い。
ミサトの位置づけの違いには最初に見たときにはある程度は気がついていましたが、しかし、ゲンドウがこれだけ立ち位置が違うのは通しで見ないとわからなかった。
言えることは、同じ「自分語り」でも、前作は主観性だけで突っ走っていたけど、本作はどうやら全てを客観的に見ている。もしくは相当見ることが出来ている。そういう立ち位置にゲンドウと冬月が置かれている。リツコはそのサポート役で多分ゲンドウの愛人でもあるのだけどそこから先は続きを見ないと全くわからない。
前作でも最初と最後ではミサトを明確に他者として描写してるんだけど、それ以外では非常に他の女性との境界線が曖昧になっていた。母であるのか恋人であるのか姉なのか…
本作では、そうではなく、恋人か同志であるという事を印象づける描写がいくつも出てきていました。
例えば、終盤の「ヤシマ作戦」に出ることを拒否するシンジを説得するためにネルフの最下層のアダムリリス*2に連れていく*3シーン、エレベーターで握られた手。これは前作では劇場版最終話でしかシンジに向けられていない手の握られ方。
例えば、最初の射撃に失敗した後でシンジを更迭しようとするゲンドウに抗弁するミサトの姿。
これらは「私はあなたを信じます、だから、立って」*4と言うそういう心の叫びの感じが非常にする。
そういう観点からすると、この時点で既にミサトの立ち位置と言うか二者の関係性は確立されている。部下-上司ではあるが、しかし、最低でも同志、多分、同志以上恋人未満。