月よお前が悪いから…のアーカイブ

http://d.hatena.ne.jp/artane/ がサーバの関係で消えるようなので、アーカイブします。基本更新しません。

ウルトラマンメビウス

http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/tv/news/20060222spn00m200001000c.html

ウルトラマン:新作で一族復活

ウルトラマンシリーズの新作「ウルトラマンメビウス」が、4月8日にTBS系でスタートする。(土曜後5・30)。テレビシリーズ16作目となる新作では、初代ウルトラマンら歴代ヒーローたちとつながりを持つ「M78星雲 光の国」の世界が登場。ウルトラの父、母の復活が決定し、歴代ウルトラマンの登場も期待されるなど“お父さん世代”にはたまらない作品になりそうだ。

1966年に誕生した初代ウルトラマンが所属していたのが「M78星雲 光の国」の「宇宙警備隊」。警備隊の大隊長ウルトラの父で、そこにはセブン、帰ってきたウルトラマン、A(エース)、タロウ、レオ、80(エイティ)、ウルトラの母など60〜80年代に少年たちを熱狂させたヒーローたちがいた。

ウルトラマン生誕40周年の今年制作される「メビウス」は、その宇宙警備隊のルーキーという設定で、宇宙怪獣の出現で打撃を受ける地球を救うため、大隊長から地球行きを命じられる。地球では地球特捜チーム「CREW GUYS」の隊員ヒビノ・ミライを名乗り、「真のウルトラマン」として成長していく。必殺技は「メビュームシュート」。

すでに父と母の新作での復活は決定。テレビシリーズでの登場は、父は80年の「ウルトラマン80」、母は74年の「ウルトラマンレオ」以来。「M78星雲 光の国」の宇宙警備隊という設定のため、歴代ヒーローたちの登場にも期待がかかる。

また、現在放送中の「ウルトラマンマックス」では「バルタン星人」「ゼットン」などウルトラマンウルトラセブンに登場した人気怪獣が復活しているが、「メビウス」では「帰ってきたウルトラマン」以降の第2期怪獣ブームを盛り上げた「グドン」「ツインテール」なども復活。ウルトラマン側の味方として人気だった「カプセル怪獣」の「ミクラス」も帰ってくる。

主人公のヒビノ・ミライを演じるのは若手俳優五十嵐隼士(19)。40周年を記念して9月には劇場版の公開や、イベント開催なども予定されている。

スポーツニッポン 2006年2月22日

時間枠からMBS制作かと思ったらCBCでした…
http://www.hicbc.com/tv/mebius/main.htm

映画版は「ULTRAMAN」「ウルトラマンネクサス」の小中和哉監督という事で確定のようですが、並行して制作されているTV版の方は一ヶ月以上前から色々と噂が飛んでいました
…シリーズ構成が「ネクサス」の長谷川圭一氏だとか小中監督も噛んでいるとか、ジュブナイルをやるとか、挙げ句には「ネクサス」がバンダイ商業的に失敗した所を踏まえて商業的な担保を取るとか…*1(;´Д`)
飛び交った噂がどこまで本当なのかはスタッフを見ないとわかりませんが…

いやね、なんでネクサスのようなハードSF路線の番組を最初から夕方にやらなかったの。などとは言いませんが、*2ハード路線とマンネリの折衷点になりそうなこの作品、夕方でどこまでつっ走ってくれるか、とりあえず観察しましましょうか…

(追記)本作品でも「ネクサス」のように、板野一郎師匠監修のCGウルトラマンがバリバリ見られるのでしょうか?
「ネクサス」はヒーローになってしまった者や主人公の抱えるモノを中心に描いたシナリオも秀逸だったけど、「板野ウルトラマン」のバトルの爽快さも醍醐味の一つだったので、是非ともCGのウルトラマンがバリバリ動く作品になってほしいです…

*1:現にレトロ怪獣とウルトラの父母の登場を予告しているあたりで担保が取られている訳ですが…

*2:あの作品を短縮前のプロット通りに夕方にやっていたら熱狂的なファンがこれだけ出来たかどうかは微妙ではありますからね…でも、朝にやるよりは余程よかったと思う…

日本にはゲッペルスとヒムラーが沢山いるようだ

旧聞乍ら、一部抜粋

http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/580


☆海外の目で診た〈ママ〉日本における言論の自由の危機★

TUPは主に海外のニュースやメッセージを読者の皆さまにお伝えしていますが、海外の目で診た日本の姿の紹介もTUPの大事な役割でしょう。今春にメディアをにぎわしたNHKと朝日新聞の対立は、単なる喧嘩として片づけられることが多く、いつのまにかウヤムヤになってしまった観がありますが、海外の識者たちは日本における言論の自由の危機として厳しい眼で見つめています。
本稿はジャパン・フォーカス・サイトに掲載されたのを受け、TUP速報として配信したいと思いましたが、すでにMEKIKI−net(メディアの危機を訴える市民ネットワーク)による出版を前提とした翻訳がなされていました。
だが幸いにも、原作者、翻訳者双方のご厚意により、配信が実現しました。テッサ・モーリス=スズキ岩崎稔両氏に感謝いたします。なお、本稿は書籍原稿ですので、年号などは漢数字で表されています。井上 /TUP

☆日本のメディアで何が起きているのか★
このエッセーは、テッサ・モリス=鈴木さん自身も下支えしているインターネット上のメディア、Asiarights《*リンク》に、非日本語圏のひとびとのために、日本のメディアで何が起きているのかを説明するために発表されて話題を呼んだものである。
日本語圏の読者には自明であったり、またそうであるがゆえに不可視になっていたりすることも含まれているかもしれないが、このように外部の、それもきわめて洞察力豊かな視点から眺めることで、同じ事態がまた違った奥行きをもって解読可能になるのではないだろうか。
なお、原文には詳細な二十一項の註がついていたが、非日本語圏の読者を想定したものでもあったことから、割愛した。また文中には[…]という割注形式で訳注を付した。岩崎 稔 /MEKIKI−net
http://rspas.anu.edu.au/asiarightsjournal/

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言論の自由、沈黙させられた声――日本のメディアとNHK問題
――テッサ・モーリス=スズキ
ジャパン・フォーカス 2005年8月13日掲載
(中略)

論争の起源は、二〇〇〇年の一二月、女性国際戦犯法廷が東京で開催された時点に遡る。日本と他の六カ国からなるNGOが組織したこの法廷は、証言を集め、公表し、戦後の東京裁判によっては扱われなかった戦争犯罪について審判を下そうとしたのだ。

その問題とは、植民地や被占領国の女性たちが日本軍によって設置されたいわゆる「慰安所」において、制度化された強かんや性的虐待を強いられたことであった。

法廷には公式政府の後ろ盾があったわけではなく、したがって処罰を遂行する力はもってはいなかったが、その裁判官や法曹団には、国連やその他の裁判所で豊かな経験を蓄積してきた多くの個人が含まれていた。旧ユーゴスラビア戦犯法廷の前所長であったガブリエル・カーク・マクドナルドもそのひとりである。
二〇〇〇年の法廷の主要な目標は、女性たちの証言を公共的にヒアリングする機会をつくりだすことであった。
戦時中に「慰安所」で極限的な性的虐待を経験しながら、他の法的な場では承認も補償も得られなかった彼女たちの多くは、いまどんどん高齢になりつつある。法廷の判決が、さらに正式な国民的、国際的司法手続きの場を開くための基礎となることが期待されていたのである。

法廷は公開で行われ、連日千人ほどの傍聴者を集めていた。八カ国、六二人のサバイバー*1と、二人の旧日本兵が証言に加わっていた。
ワシントンポスト』『ワールドストリート・ジャーナル』『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク』『コリアタイムズ』、それにオーストラリア放送協会といった国際的メディアによって、その様子は大きく報道された。
だが、それとは対照的に日本国内では、全国的な日刊紙『朝日新聞』だけが法廷のある一部を報道しただけで、日本のテレビ局にはすっかり無視された。

こうしたメディアの沈黙にとってたったひとつの例外であったのは、二〇〇一年一月三〇日にNHK教育テレビで放送された『戦時性暴力を問う』というタイトルのテレビ・ドキュメンタリーだった
この番組は、戦争責任の問題に関する四回シリーズの第二回だったが、シリーズの他の回には、アルジェリア独立戦争や旧ユーゴスラビアの紛争のような問題が取り上げられていた。『戦時性暴力を問う』は、はっきりと女性国際戦犯法廷に焦点を当て、多くの法廷参加者の協力のもとに制作されていた。


(中略)

しかし、さらにもっと重要なことは、右翼が押しかけてから二日後の二九日にあった松尾武(当時、放送総局長)を含むNHKの上級スタッフと有力な与党自民党の政治家、安倍晋三との会合であった。安倍は、当時は内閣官房副長官であった。

この点は特筆しておくべきことなのだが、彼は政治支配層の内部で、その意見がかなり重みをもつ人物であった。元総理大臣岸信介の孫として、また元自民党幹事長安倍晋太郎の息子として、安倍はタカ派的な外交政策を持論としていることで知られており、最近では現職の小泉首相のもっとも有力な後継者とひろく目されている。
(二人目の勢力のある政治家であり、その後経済産業大臣となった中川昭一もその場に立ち会っていたと報じた記事があったが、後述するように中川自身はあとになってこれを否定している)。
安倍と松尾、それに他の参加者たちは、一月二九日の会合で話し合われた主題のひとつが、放送予定になっていた女性国際戦犯法廷に関するドキュメンタリーの内容であったことを認めている。
しかし、目下の争いの核心をなしているのは、かれらの会話がどのような性質のものであり、どのような帰結をもたらしたのかということである。

放送に先立つ最後段階で、ドキュメンタリーはその内容を決定的に改ざんされた。新しい材料が付け加えられたのである
それは、「慰安所」制度に対する日本軍の責任を否定する歴史家であり、法廷に対するもっともあつかましい批判者として知られていた秦郁彦のインタヴューであった。
それ以前に番組に関与していた法廷の組織者たちには、この秦と議論をしたり、かれの批判に応答したりする機会は与えられなかった。
先の天皇裕仁に対する法廷の有罪判決に言及している箇所について、これをすべて消去するという決定も行われた。

さらに重要なことは、安倍と会ったあとで、そしてそれは番組放送まで二十四時間もない時点なのだが、NHKの上層部がさらに土壇場の変更を求めた*2という点である。
放送時間はこれによって四十四分から四十分にまで切り縮められた。軍による性的虐待に関する中国人犠牲者の証言は削除され、また「慰安所」制度に対する軍の責任や、そこで働かせるために集められた女性たちに加えられた暴力について語った元日本軍兵士の証言も消去された。
結果として、ドキュメンタリーの最終版には法廷の手続きについて一場面も含まれておらず、それが行った判決についてもまったく言及されない
ということになった。
この番組の放送後に、VAWW−NET Japan (Violence Against Women in War - Network Japan)は、番組制作のために協働することを合意したときの条件をNHKが破ったと主張して、放送局と二つの製作会社を、法廷にダメージを与えるためのドキュメンタリーを作った廉で訴えた。その裁判はいまも続行中である。

いまいちど確認しておこう。
最終段階での変更が、番組の内容に関するものであったという事実については、争われていないのである。
争点となっているのは、こうした変更が、独立した編集担当者の決断によるものであるのか、それとも、NHKの編集過程に対する政治的介入の結果であるのか、ということ
である。

  • 告発者の物語

(中略)
しかし、二〇〇五年の一月一二日、問題は、政治的問題に対するリベラルなアプローチをすると一般に見られている全国紙『朝日新聞』に掲載された二つの記事によって、ふたたび見出し記事の位置にもどってきた。
そのきっかけとなった告発者は、あとではそれが二〇〇一年一月のチーフ・プロデューサー長井暁氏であることが明らかになるのだが、かれはNHKの内部からカミングアウトして、番組に加えられた変更は、たしかに安倍晋三官房副長官中川昭一経済産業大臣による圧力の直接的な結果生じたものだと明らかにしたのである。
これは重大な発言であった。他の国の公共放送局(たとえば、英国のBBCやオーストラリアのABC)と同様に、NHKも、法律によって外部の政治的圧力から独立を保つことが求められているからである。

朝日新聞』の記事によれば、NHKの幹部は、番組内容を変えるように番組プロデューサーに命令した際に、とくに、NHKの予算がちょうど国会で審議中であるという事実を挙げたのである。
また、安倍との会見に立ちあったもうひとりの幹部(それがあとでは松尾武放送総局長であったことが判明する)は、朝日新聞』に対して、政治家による「圧力を感じた」と語り、その発言が引用されている。
その含意は明らかに、もし番組が政治家たちの要求に合致するように変更されないのであれば、財政的なペナルティがあるかもしれない、ということであった。

朝日新聞』の記者は、自民党の政治家、安倍晋三中川昭一にも話を聞いている。安倍はNHKスタッフと会った際に、番組の内容について話しあったことを認めているが、これが「政治的圧力」を構成していることは否定した。
中川は、その時点では、日本の歴史教育の内容をもっとナショナリスティクにするように求める「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の代表であり、『朝日新聞』に対してつぎのように述べたと報道されている。
「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」。

(中略)

  • メディア、自立性、権力

たしかに、公共放送の自立性が危ぶまれている国は日本ばかりではない。東京における目下の争いは、イラクの「大量破壊兵器」に対する英国政府の動きをめぐるBBCの報道に関して行われた二〇〇四年のハットン調査委員会や、二〇〇一年にオーストラリア放送協会会長ジョナサン・シアーが、個人的な友人であるジョン・ハワード首相の見解に不当に影響されているという訴えを受けて辞任した事件を思い出させる。

しかし、日本のケースでメディアの自由の実質についてとりわけ深刻な問題を提示しているのは、まさに報道関係者や政治家たちが、この争いに対してどう対応しているのかという点である。民主主義においては、報道に対して政治的圧力が加えられているかどうかという問題は、決定的に重要な論点である。
もちろんそれは、ジャーナリストにとってだけ重要な争点であるというのではなく、もっと一般的に、公衆の「知る権利」にとって中心的な意味をもっている。

朝日新聞』の記事によって提起された問題は、そしてNHKが番組の内容に
ついて、選ばれた政治家たちと放送前に定期的に話し合ってきていたということは、メディア倫理に反しているだけではなく、法律にも違反している可能性がある

ちゃんと機能している民主主義のシステムでは、そうした深刻な告発があった場合、それが野党政治家やメディアの力によって、議会の、あるいは司法機関の調査委員会のような独立した機関によって問題を徹底的に調査せよ、という厳しい要求に転化すると期待できるだろう。
ところが、日本ではこのような反応は起こらなかった。まさにそのことが、この国の現在の政治システムのなんたるかを語っているのである。
一九九〇年代のちょっとした時期を除けば、自由民主党は(単独でか、あるいは連立の主導的なパートナーとして)過去五十年間一貫して政権の座にありつづけた。ここ十年間のあいだに、相対的に小さいがかなりはっきり声をあげてきた社会民主党(かつての社会党)の議席は激減してしまい、新しい勢力としての民主党が日本の主要な野党として登場した。
民主党は、雑多な政治家たちの集団が最近になって合同してできたものであり、そのリーダーシップは、かなりの部分が、与党自民党のかつてのメンバーで、一九九〇年代にそこから分かれたひとびとによって握られている。
他の重要な社会的、政治的、外交的な論点と同様に、NHK事件についても、民主党は内部の深刻な不一致によって引き裂かれているために、党の指導者たちは目の前でおこっている論争に深く関わっても、あまり得策ではないと判断したようである。
民主党の執行部は、この事件が「報道の自由にとって重要な問題」であると厳かに宣告したにもかかわらず、この声明に続いて、独立した調査機関の調査を行うべきだという主張を実効力ある形で押し出すことができなかった。
そうこうしているうちに、日本のメディアの残りの部分は、全体としてこのストーリーを取り上げることに決めたのだが、それはただし、ジャーナリズムの独立と政治的介入をめぐる争いとしてではなく、むしろふたつの競合しあう組織、NHKと『朝日新聞』とのあいだの喧嘩としてである。
それはスポーツのような見世物であり、そこで観客にはふたりの出演者が罵りあっているのを眺
めていただこう
というわけである。

(たとえば月刊誌『文藝春秋』はそのメインの記事に「NHKvs朝日、メディアの自殺」というタイトルをつけたし、『Yomiuri Weekly』は、その記事を「泥仕合『NHK』と『朝日』――大嘘つ
きはどっちだ?」と題して掲載した。

(中略)

朝日新聞』が自分でもっている週刊誌は、論争が起こった週には、その話題について沈黙を守ることにしていた。(もっとも、グループの月刊誌『論座』は、あとになって、新聞の立場を支持する一連の分析的な記事を出してはいたが)。
毎日新聞』系の週刊誌は、この事件について、与党自民党とNHKと
の関係に焦点をはっきりと絞りこんだ記事を掲載した。
しかし、そうした声は、政治的介入からのNHKの独立性という問題について論じるのではなく、むしろ事件の端緒となった『朝日新聞』によるすっぱ抜き報道を攻撃することに一生懸命になっている他の有力誌のかまびすしい野次によって、かなり減殺されてしまった。

たとえば販売部数の多い『週刊新潮』は、この問題についての報道を「魔女狩り」(安倍、中川といった政治家たちに対して『朝日新聞』が行った批判を指している)や「ジャーナリスティックな嘘」(『朝日新聞』の報道を指している)という言葉を使って書きたてた。
他の雑誌は、いくぶんかだけもっと微妙なスタンスをとった。たとえば、『週刊文春』は、読者にむかってNHKと『朝日新聞』両者の「醜悪な体質」を暴露するという記事をメインに立てた。
一見するとこれは、論争に対するバランスのとれた評価を下しているように見えかねない。しかし、実際に読んでみれば、その記事の中心的な議論は、きっかけになった告発記事を書いた『朝日新聞』に対する激しい攻撃以外の何ものでもないことがわかる。
NHKのスタッフについての多くの辛らつなコメントも書かれているが、この組織に向けられた主要な批判は、そもそもNHKが無責任にも女性国際戦犯法廷についてのドキュメンタリーを放送しようなどと試みたことに絞られていた。

週刊文春』の記事は、そもそもあらゆる問題の諸悪の根源は、このテレビ番組の「幼稚な本性」に他ならないと結論づけている。
この問題についての、センセーショナルな線をねらった雑誌記事の、とくに不穏な特徴は、事件に関わっている何人かのジャーナリストに対する非常に個人的な攻撃であった。
とくに顕著であったのは、『朝日新聞』にきっかけとなった記事をすっぱぬいた本田雅和記者に対するものであった。

本田記者は、『朝日新聞』で長いキャリアがあり、環境汚染や対イラク戦争、そして最近では東南アジアの津波被害などの諸問題について、よく調査した裏づけのある報道をすることで知られていた
週刊文春』は、(他のこととあわせて)北朝鮮に対する本田記者の関係について、一連のあてこすり記事を載せることで、かれの信頼性を掘り崩そうとしたのである。一九七〇年代、八〇年代における北朝鮮の機関による日本市民の拉致が暴露され、北朝鮮への敵意が日本でひろがっている時期には、そうした当てこすりは、特別な政治的打撃力をもっていた。
そこに含まれているレトリックはこまかく検討しておく必要がある。というのも、それはこの週刊誌のジャーナリスティックなスタイルがいかなるものであるのかを示す鮮やかな一例であるからである。
(中略)

北朝鮮工作員」という言葉は、過去二年間に、日本のメディアで非常に広く使われてきたものであり、一般に世論のなかでは、七〇年代、八〇年代にひそかに入国し、日本の市民を拉致した犯罪に責任のある秘密機関が連想されている。
「広義の北朝鮮工作員」という言葉で暗示されている内実は、ある人物の推測である。
週刊文春』の記事(と安倍晋三)は、その黄について、かれが北朝鮮の官吏であり、その能力によって、いくばくかのたいして意味のない政治的見解を表明したということ以上には、有罪であるという証拠を提示できなかった。
しかし、そのフレーズは、何かまがまがしい勢力が働いているのだという悪意に満ちた不安を掻きたて、それによって望みどおり、ひとびとのあいだに戦慄を引き起こすことに役立ったのである。

つぎの段階は、こうした不吉な勢力と『朝日新聞』の本田記者とのあいだにつながりをつけることである。
ここで『週刊文春』は、非常に薄っぺらな材料から、何かを作り上げなくてはならなかった。
女性国際戦犯法廷の直前に、本田記者が、日本ではよく知られているNGOが運営している学習クルーズ、ピースボートに参加していたこと、またその航海の旅程に北朝鮮への寄航が含まれていたということが読者に向かって暴きたてられる。
この航海の途上で本田記者は、北朝鮮からの参加者が法廷への参加に同意したという報告記事も書いていた。
「その結果として日本に来た人物が、黄虎男であった」と、週刊文春』の匿名ジャーナリストは結論づけている

週刊文春』や他の雑誌が『朝日新聞』の貧困な報道水準なるものに投げかける説教じみた御託宣と口汚い個人攻撃のコンビネーションは、ぱっと見にはじつに面白い見世物に見える。
ところが、繰り返されるこの種の報道には、つぎのように読み解かれるべき深刻で笑い事ではすまないようなメッセージが含まれているのである。
つまり、政治的支配層を決定的に困らせる記事を書くジャーナリストは、その同業者から罰せられるのであり、そしてもし可能ならば一緒に口を封じられるのだぞ、というメッセージである。

したがって、NHK問題に対してどう応じるのかということは、マスメディアと民主主義の問題の核心に届くような大切なことがらなのである。
これまでのメディア理論では、自由な報道とは、政治家がその権力の限界を踏み越えると
きに、政府の活動を監視し吠え立てる「民主主義の番犬」(watchdog)として働くものだと想定されている。
しかし、最近のメディア批判は、はたして今日の寡占化したマスメディアが「番犬」の役割を果たす能力も意志も持ちあわせているのかどうか、疑問視している。

たとえば、二〇〇四年のアメリカのドキュメンタリー映画『出し抜いて』("Outfoxed")は、マードック・メディア帝国とジョージ・W・ブッシュ政権とのあいだの緊密な共犯関係に光を当てていた。[ "Outfoxed" は二〇〇四年にロバート・グリーンワルドが、マードック資本のもとで働いていたひとびとの証言とかれらが持ち出した内部文書をもとに、その政治的な虚偽を告発したドキュメンタリー作品。タイトルのOutfoxedには、巨大メディア資本マードックが支配する、保守的でブッシュお気に入りのフォックス・テレビから抜け出すということがかけてある。――訳者]

日本のメディアの実情を観察しているひとびとは、もはやそれが「番犬」
watchdog というよりも、政治的エリートの権益を守るための「飼い犬」guardn dog として機能するようになっているとも考えている。

NHK問題は、メディアと政治権力とのそうした構造的癒着のいくつかの側面を照らし出している。
NHK経営陣が、問題になりかねない番組の内容をあらかじめ特定の政治家と話し合うことは「通常の業務」であると公然と言明したことは、明らかに、その組織が行う放送の独立性の全内容を疑わしいものにしたのである。

また、『週刊文春』の記事が示しているように、商業誌がたえずスクープを探しているという姿勢は、政府に近い「ひとびと」からの、つまり、親しいメディア関係者にオフレコで話をしたいと思っている高級官僚や政治家からの、権限のないコメントに深く依拠するという事態を生みだしてしまう。
実際に、NHK事件によって明らかになった枢要な問題とは、(新聞であれ、テレビであれ、週刊誌であれ)個々のジャーナリストと有力な政治家とのあいだにできる非常に親密な個人的関係であった。
日本のジャーナリストは、たえず特定の政治家を追っかけ、かれらの正式な公的活動だけでなく、非公式の発言や社会的活動にも立ち会うようにと命じられている。
そのうちに、こうした指示は親密な個人的関係に転化してしまうことが多い。
そこでは、ジャーナリストはやすやすと、その政治家が撒き散らしたいと望む情報を広めるための格好のチャンネルとなることだろう。

もちろん、その見返りは、そのジャーナリストがその関係からときたま「スクープ」を手にいれられるという期待である。
だからそうしたチャンネルを維持することは、新聞や雑誌が商業的に成功を収めるためにはどうしてもなくてはならないことであると見なされている。

主流派の雑誌は、体制のなかで敵意や嫉妬を買う個々の政治家については、かれらを相対的に安全なターゲットにするために、すすんで暴露をすることはある。
しかし、体制全体を困惑されるような構造的な問題と取り組むことはけっしてしない。

NHKのケースでは、多くの週刊誌が、あきらかに、批判的な吟味の矛先を政府とNHKとのあいだの関係から逸らし、『朝日新聞』を攻撃することのほうが自分たちには政治的に得になると決めていた。
そうすれば発行部数を押し上げられるだけでなく、同時に、政治的官僚的エリートのなかにあるかれらの頼りとする情報源に対して点数を稼ぐことができるから
である。
その結果生まれるジャーナリズムは、餌をねだるロットワイラー種の熱心さよろしく、忠実な「飼い犬」ぶりを発揮するというわけである。

  • 「公平でバランスのとれた報道」

(後略)

*1:生き残った人達

*2:ここに注目!安部氏とNHK上層部の間の「呵吽の呼吸」で事が進んでいると言う意味である

長文引用申し訳ないです m(__)m

id:artane:20060222#1140584347 で一部引用した*1レポートは、非常に示唆に富んだレポートであると思います。

日本では、中立とは政治体制の側に立つことを指す訳です。

そのためには、嘘もデタラメも許される。
この事件のみならず、正直な事を言った者は悪者で、嘘吐きの政治家や高級官僚は正義。そして嘘吐きの尻馬に乗って提灯持ちさえすることこそ国民的な義務って事です。

これが、スターリン体制のソ連ナチス体制のドイツ、そして大日本帝国のようなファシズムでなければ、何をファシズムといえばいいのでしょうか?

我々は、人間であるという矜持を捨ててはならない、仮令、路頭に迷って残飯を漁ろうとも。
今の日本人の多数は、犬畜生以下だ。

*1:けど長くなった ^^;