月よお前が悪いから…のアーカイブ

http://d.hatena.ne.jp/artane/ がサーバの関係で消えるようなので、アーカイブします。基本更新しません。

杉並での「市民派」と左翼の小競り合い

事の始まりは福士敬子都議の「日の丸・君が代」や石原都政への対応にたいして、今度の都議選に長谷川英憲氏を推薦する中核派が噛みついた事なのですが…

http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no05/f2202sm.htm#a2_3

 言行不一致への批判に居直り
 こうした中で、すべての闘う労働者と杉並区民が許すことのできない、驚くようなことが発生した。杉並選出の都議会議員で「100%市民派」を名乗る福士敬子(よしこ)議員が、自分のホームページで、今春3月の小中学校卒業式に来賓として出席した際、「君が代」の起立・斉唱の指示に何の抗議もせず従ったことを認め、それへの批判に居直ったのである。
 福士議員はそこで、「私は、冠婚葬祭に出席した場合は、神式、仏式、キリスト教いずれも、その式次第に従ってきた。それが無節操と言われれば仕方がない。同様に式典に出席するからには、式次第に従う」と、自分が起立したことを認めて、何も問題はないように言っている。だがこんな弁明が認められるだろうか。
 卒・入学式での「日の丸・君が代」強制の「式次第」は、世の中の冠婚葬祭の式次第などとはその性格が根本的に異なる。都教委の03年10・23通達は、卒・入学式を戦前同様の軍国主義強制の場につくりかえ、そのことによって子どもたちの成長を祝う式典を踏みにじるものだった。だからこそ多くの教育労働者がその職をかけ、人生をかけて、必死の思いでこの「式次第」への抗議と、全力を挙げた粉砕の闘いに立ち上がったのだ。
 そもそも福士議員は、2月6日に日本教育会館で行われた集会で、処分を受けた教育労働者に「エールを送ります」というメッセージを寄せていた。したがって、卒業式の当日には、闘う教育労働者とともに「日の丸・君が代」強制に抗議して闘うはずだと誰もが思っていた。しかも、教育労働者が重い処分を受けるのとは違い、議員は起立しなくても何の処分も受けはしない。むしろそうした立場だからこそ、闘う教育労働者を激励するためにも、率先して不起立で闘うことが求められていたはずだ。
 闘う教育労働者への「連帯」を言葉の上では語るのに、実際にはまったく逆の行動をとる。この言行不一致に厳しい批判が浴びせられるのは当然ではないか。もし彼女が本当に処分された教育労働者に連帯すると言うのなら、批判を謙虚に受け止めて反省すべきなのである。ところが福士議員は、自己の誤りを認めず開き直ったばかりか、「日の丸・君が代」攻撃と闘う意思など最初から持っていないことをあからさまに告白したのである。

(この後、福士氏に対する説教が続くが長いので省略)

例によって針小棒大ネガティブキャンペーンかと思ったらそうではなくて、事実でした。

http://www.asahi-net.or.jp/~pq2y-fks/topics/topicshinomaru.html

日の丸・君が代について
 
日の丸・君が代で、右翼系のみならず、左翼系の人々も他人を監視し、誹謗中傷を始めた。私もターゲットらしい。

これが恐ろしい。

03年10月に出た教育委員会の通達による一番の問題点は、日の丸、君が代の是非よりも、右も左もお互い同じように人々を監視し、中傷を始めることにある。そしてそれを聞いた人々は動揺し、また不安を広げる。

私は、このような社会になることに異議を申し立てたつもりである。

国会で「思想、信条の自由」を認めたのは論議も煮詰まっていない中で、個々の自由を認めたのだということだと思う。本来は、もっと国旗・国歌を変えるかどうかの運動を広げなければならなかった。

私はもう30年位前になるが、今は故人となられた教育評論家の金澤嘉一氏らと、日の丸・君が代についての勉強会をし、議論をしてきた。金澤氏は「日の丸・君が代をなくし新しい国旗・国歌を!」という意見だった。私も天皇の御代をうたうのは論外であり、国歌は変えるべきだと思った。しかし、日の丸を変えると、すべてを忘れやすい日本では、日の丸の旗を使って人々を戦争にかりたてた歴史も忘れられるのではと心配した。今もその想いは変わらない。

それよりも、侵略戦争を行ってきた日本の歴史を正直に子どもたちに伝え、二度と同じあやまちを犯さない人々を育てるべきだと思う。それが近隣諸国へのつぐないだと考えている。「アイツが立った、座った」の議論で終わらせてはならない。


私は、冠婚葬祭に出席した場合は、神式、仏式、キリスト教いずれも、その式次第に従ってきた。それが無節操と言われれば仕方がない。同様に式典に出席するからには、式次第に従う。旗を見るとき、無念の人々を思う。但し、一度として天皇の御代だと歌ったことはない。今後も思想の押し付けには反対していきたい。人権と自由を守るために。

確かに個人の考えや行動は自由ですが、
この考えでは、「左翼」から糾弾されても仕方がないと思います。

そもそも日の丸の旗は戦の旗であり、それが明治政府によって「国民」を統合していく象徴になった…その行く末にあの、凄惨な大東亜戦争*1による破滅とも言える殺戮があった。

そのことを弁えているのなら、覚えてもらうためには旗の掲揚に抗うことこそが大日本帝国の過ちを繰り返さない意志を示す最良の手段ではないかと思います。

後、卒業式という場が単なる式典ではなく、「踏み絵」の場にされているという事実から福士氏は眼を背けていると思います。

あの場が単なる式典ならば国家斉唱の時に立つという選択肢もあるでしょう。
でも、今や卒業式などは、国家斉唱を通じて、参加者が国家に隷従するかしないかの踏み絵を踏ませる場になりつつある。

そのことが福士氏は全くわかっていない。残念な事です。

私としては福士氏と長谷川氏の両方が当選して共闘することを望んでいますが*2、既に「市民派」は左翼的な物とは違う物になってしまったのでしょうか?
…とにかく革新陣営同士での泥仕合だけは止めてほしい。私が言いたいのはそれだけです。

*1:意図的にこの言葉を使っています…あの戦争は太平洋戦線だけではなく、そもそも日露戦争の後の植民地政策による大陸への拡張主義の戦争であった事を考えると、「太平洋」と言う言葉は事実の矮小化ではないかとおもっているし、他に適切な言葉が見付からないので…

*2:杉並区民でも都民でもない私が言うのもおこがましいが