私の役割は終わりつつあるのかもしれない
…あくまでも、世に警鐘を鳴らす役目はですが。
今の「派遣切り」とかブラック企業の人使いの出鱈目さとか貧困とか、そういうのは十五年前からの約十年間で一通りくぐっているし、ここにしても旧日記*1にしても、書いてることはそういう苦難の渦中*2にいる中で自分の血を乾いた雑巾から搾り取るようにして書いてきた代物で、時代的にはずれているし・渦中*3にいる中で苦悶しながら書いたので客観性などどこにもない代物で、勿論同意など誰からもロクに得られやしなかったのだけど、しかし、この社会情勢では陳腐であっても、あの当時としては先駆的であったしあの当時の未来予測はほぼ当たったと思っています。
新自由主義という言葉は一昨年の夏くらいからしか意識してこなかったけど、小泉内閣以降政治力を誇示してきた彼らの「改革」と言う物が、持てる物がより富を収奪するためにより多くの人を踏み台にするためのルールの「改悪」と言うか八百長のためのルールの制定であり、そこの過程と結果には公共財産の私物化と言う物がルールを制定する側の「果実」として横たわってきたことは事実としてあったし、2003年位には「改革派」首長の振る舞いからそういう物を認識せざるを得なくなったし、そもそも「改革」に伴う公共財産の私物化についてはィエリツィン時代の1990年代前半のロシアで行われたものが最初に顕在化したものだと思います。
あの時には生産手段も資源もすべての国富が数百人のずる賢いオリガルヒや彼らと癒着した政治家に偏って所有されていて、故に貧困は収まらず社会は荒れ果て、言論もけして自由とは言い難くマスコミが政治闘争の最大の道具として使用されていました。*4
そういう辺りでの、例えばモスクワ特派員であった金平茂樹氏の露骨な嘆き*5であったりロシア人の経済学者によって2000年頃に行われたロシアの「改革」の分析にあたっての「そこで行われたのは資本家による人民の財産の私物化である」と言う言葉であったりしたのですが、私のそこまでの経験からして今起きている「改革」の胡散臭さと危険性を直視する上で、そういう視点に立脚する必要が強くあった。
行政の長による公共財産の私物化の最たる物は、
この辺りになるのではないかと思いますが、ここに見えてくるのはトップが自分の満足を果たすためにどこまでも無制限に「下」や「周囲」を犠牲にしてよいというイデオロギーであって、それ自体は日本であれば中曽根内閣の「臨調」に代表される意思決定の私物化に始まった歪んだ政治主導の貫徹があって、そこで出てくるのは議会の無視・軽視のみならず、少数意見や政治的少数者の利益の黙殺・圧殺*6をも伴った物であって、この十年の問題ではなく、1980年代前半からの30年間弱持てる者から我々に行われ続けてきた政治的攻撃であった。と位置付けることが出来ると思います。
この意味で小泉純一郎という希代の詐欺師・アジテーターと言う人物が統べていた、国家社会主義が華々しく開花していた「改革」の五年間を見つめ直す必要があるし、現在も残る最大の「正統性を持つ芽」として「改革派」でも最右翼と考えることができる松沢しげふみ 神奈川県知事と言う人物を見直して撃ちつづける必要があるんじゃないかと思います。*7
…「小泉死して、松沢を残す」とするには非常に危険過ぎる政治手法を目立たない事をいいことに続けるこの詭弁護士は神奈川県に限らず日本全体の民主主義の敵として位置付けるくらいすべきだと思います、多分、これが私が今の「貯金」で出来る最大最後の警句であります。