一つの側面からは「正しい」事も、マクロで捉え直すと不具合の方が多くなる
受動喫煙防止条例(以下、禁煙強制条例とする。その思想性を明確にするために)と言う物やそこに繋がる諸問題というのは、まさにこの構図があてはまると思うのです。
確かに、喫煙は害の方が大きい、しかし、現状以上に分煙を進める禁煙強制条例のやり方は社会システムとして余りに害毒が大きすぎる。
思想的にこの条例を見ると*1
- 喫煙は不健康な行為である
- 不健康な行為は排除しなければならない
- よって、喫煙やそれを幇助する者を取り締まる必要がある
こういうロジックで非常に極端な条例案を出し、流石にそれでは利害的に厳しいという声に応じて「妥協」したと言う物が成立しました。
この三段の内の最上段には同意する。と言うかここは別に問題ないです。
二段目の所に、松沢知事のある種の潔癖症が出ていて、松沢知事個人に取ってはいいことであっても、他の人に取ってそうではない事というのもかなりあるのがこの時点で欠落している。
松沢知事や(個人的嗜好から)喫煙者を声高に非難する人々に共通して欠落しているのは、自分と違う他者への寛容さではないかと思うのです。
そう考えると「行き過ぎた嫌煙者」と死刑や有害図書排除を執拗かつ声高に叫ぶ人の間に境界線はなくなる。
彼らは、ある問題について自分と同じ見解の者しか存在価値を認めない。その他の見解への寛容さはあってはならない物として徹底排除されていく。
タバコの物理的害毒よりも、この排除の論理という「社会的な害毒」の方がよほど深刻な影響を我々に及ぼしてるのではないか?
排除の論理は、それが得てして無自覚な集団ヒステリーを伴うが為に、ヒステリー自体が暴走して別の排除の生贄を探し出す。*2
故に、この排除のループは人というもののつながりや多様性の原則を著しく侵食し、破壊する。
子供が望まずに吸うであろう、今となっては僅かなタバコの煙よりも、この害毒は長期化・深刻化する。
視野狭窄が大きな外乱への耐性を失わせる。逸脱への過剰な懲罰と文化思想の硬直化は表裏一体である。*3
我々は何を残し何を排除するか、もっと慎重になるべきではないでしょうか?
個室のような私的な空間にまで分煙もしくは禁煙を強制し、それに歯向かわせないためにその空間を管理する者にまでその責任を問うと言う松沢知事のロジックは明らかに常軌を逸している。有害図書・ゲームであれ、夜間外出であれ、禁煙であれ、この根幹部分が一貫して組み込まれている所やそれが無批判に歓迎されている所に大きな危機感を感じて止みません。*4
*1:当然、松沢知事が運用上の改悪につぐ改悪を行ってきた、青少年健全育成条例と同じような思想的な軸として捉えている。松沢知事のイデオロギーが反映されてると言う点でこの二つの条例は近似品であるので
*2:文化大革命やナチズム、スターリニズムが巻き起こした大虐殺はこのヒステリーの暴走と独裁者の利害が一致したがために起きた。ファシズムの大半は自発的に「空気」を読んで我先に空気を読まない者を生贄に差し出す事で吹き上がり、悲劇を起こす。連合赤軍事件で起こったことも共通項が多く、これらは人の業とも言える最大の負の側面である
*3:今の我々が苦しんでいるのは、社会システムの硬直化とゆとり=冗長性の排除が最大の原因であると考える
*4:なぜなら、このロジックとスターリニズムのロジックとの根幹部での差異は全くないから。個の犯した行為の責任を個ではなく殆ど関わりのない別の個にも負わせてしまう事で逸脱を抑え込もうとする、この思想的軽率さと暴力性に私は恐れおののきたい