月よお前が悪いから…のアーカイブ

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「言論の自由」はどう担保されるべきか

旧い記事でしたが、一考に値するので…

http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20021113208.html

ネット上の差別的言論の非合法化で対立に向かう欧州と米国

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Julia Scheeres

2002年11月9日 2:00am PT

欧州会議(欧州評議会)は、インターネット上で差別的な言論を犯罪と見なす規定案を承認した。差別的なコンテンツを含むウェブページへのハイパーリンクも有罪となる。

この規定案は、欧州会議の意志決定機関(閣僚委員会)が承認したもので、欧州会議の『サイバー犯罪条約』の改正案にあたる。

具体的に言うと、この改正案は「いかなる個人や集団に対しても、人種、肌の色、血統、民族に基づき、あるいはこれらの要素の口実としての宗教に基づき、憎悪、差別、暴力を提唱、助長、扇動する意見を、文章や画像などいかなる方法でも表現してはならない」とするものだ。

さらに、遠回しにホロコーストにも言及し、人間性に対する犯罪、とりわけ第2次世界大戦中に行なわれた犯罪の存在を否定、軽視し、あるいはその犯罪を肯定ないし正当化するサイトを禁止している。

同改正案に関する欧州会議の報告書は次のように書いている。「インターネットのような国際通信ネットワークの出現により、ある種の人物が、人種差別や外国人嫌悪を主張する強力な手段を手に入れ、そうした思想を含んだ表現を簡単かつ広範に広めることができるようになった。そのような人物を捜査し起訴するためには、国際的な協力態勢が不可欠である」

ヨーロッパ諸国の多くでは、インターネットを使った人種差別行為を禁止する法律がすでにある。米国では、これら行為は言論の自由のもとで一般に保護されている。欧州会議は、4000にのぼる人種差別的サイトのうち2500が米国で作られた、との調査結果も示している。

欧州議会の改正案に対しては、差別的なグループが仮想店舗を米国に開設するだけに終わるかもしれないとの批判もある。その根拠になっているのが、米国の裁判官が昨年、米ヤフー社にはナチス記念品販売サイトへのフランス国民のアクセスを遮断する義務はないと裁定したことだ。ナチス記念品のオンライン販売はフランスでは禁止(日本語版記事)されている。しかし裁判官は、米国のウェブサイトは米国の法律にのみ従えばいいと判断したのだ。

「このことは文化の衝突につながりかねない。もしフランスの警察が米国の地方警察に対して、サイト運営者に関する情報を要求しはじめたらどういうことになるだろう」と、電子プライバシー情報センター(EPIC)の政策アナリストを務めるベルギー人のセドリック・ローラン弁護士は懸念する。

バルセロナで開業しているサイバー犯罪専門のカルロス・サンチェス・アルメイダ弁護士は、ヨーロッパ諸国はスペイン政府のように、独自に米国サイトのコンテンツの検閲に踏み切るかもしれない、と指摘する。

「もしヨーロッパ諸国が欧州会議の(反人種差別)改正規定を批准すれば、[言論の自由を規定した]米国憲法修正第1条とはかかわりなく、米国のウェブサイトへのアクセスを遮断できる」

スペインは先ごろ、国内のウェブサイトを閉鎖したり、同国の法律に反する米国のウェブページへのアクセスを遮断したりする権限を裁判官に与える法案を可決している。

欧州会議に加盟する44ヵ国の代表は、条約改正案を採択するか否かを、来年1月に開かれる総会で決定しなければならない。改正を支持する国は、これを立法化する前に自国の議会で改正条約を批准する必要がある。

[日本語版:中沢 滋/山本陽一]

さて、この4年前の欧州の状況と「マンガ嫌韓流」に代表されるヘイトテキストが「大ヒット」*1し、ヘイトスピーチが野放しにされている日本の状況を見て、「日本は遅れている」と考えるのは簡単です。

しかし、私はこれらヘイトスピーチの類に嫌悪を抱きながら、しかし、いかなる権力であっても言説を圧殺するべきでは無い。と敢えて言っておこうと思います。

日本には中国・朝鮮半島及びそこの出身者を始めとする「日本以外の出身者」に対する差別ややっかみ、被差別部落に対する嫌悪にはじまり、色々な憎悪や嫌悪・やっかみがうずまいています。

そして、それらの言説は差別のターゲットとされて者には死ぬ以上の苦しみを与えることがままあり、それが昔では部落解放同盟の糾弾闘争、最近ではユダヤ資本による「マルコポーロ事件」などとして衝突点になってきました。

しかし、これらの「衝突」は何を生み出したか?
「言葉」や「思想」の地下潜行と
「触らぬ神に祟りなし」と言う心理からの新しい差別意識の芽生えを助けただけではないか?

と思うのです。

差別言説や「トンデモ説」を不快や苦痛と思う人にはそれだけの差別を受けた経験があるが、しかし、差別する側にはそのような経験はあまりない場合が大半である。ここにこそ注目しないといけないのではないでしょうか。

結局は、自分の苦痛は他人に押しつけることは出来ない。そして、他人の苦痛をおしはかる思慮の浅さと自分の苦痛を押しつけようとする事がヘイトテキストやヘイトスピーチ、そして差別行動の大半の原動力になってるのでは無いか。
それと同時に、今まで「差別」として「タブー」であった領域に踏み込んで「タブー」を侵蝕する学問が「反差別」の美名の下に排除され続けているのは興味深いと思います。

それをなんらかの権力なり政治的意図で押し潰して「なかったこと」にするのは、全く最低の解決策だと思います。

苦痛が少なくなる社会とは何なのか、差別のシステムとはどうつき合うべきか。そういう基本的な事が抜けているように思うんですが。

*1:どの位が組織的な購入か不明ですが