掲示板の議論は疲れる上に非生産的だ
おまえがいうな。と批判を受けそうですが、これが実感…ゴネれる人が勝つという構図は相変わらずで、誤読したのをどうしてくれる。とゴネられてもそんなことかいちゃいないのに変な解釈されても困るという状況に…
で、フェミニズムの中の人は内なるスターリン主義を脱却出来るのか?
と言うことで最近ブログ言説を中心に状況を追っていたのですが…この状況を何というべきか。
と言うのも、最低でも80年代末期の「成田世代」が引っ張っていたフェミニズムの状況よりはマシにはなってるようで*1はありますが、しかし、フェミニズムをツールにして新自由主義と結託している人々の振る舞いとか、男性からの視線恐怖からフェミニズムに縋ってる若い人々の言説を見てるとこういう分析がされていてもまったく活用されてこなかったのではないか。と思うのですわ。
北田暁大×張學錬「バックラッシュの男性学」概要メモ
(前編) d:id:kwkt:20041101#p2
(後編) d:id:kwkt:20041103#p2
これをベースにした議論チャットのログ:
d:id:seijotcp:20050207
これ、五年近く前の議論ですよ…今のフェミニズムの内情が象牙の塔化して新陳代謝が進まなくなってるのかもしれませんが、某掲示版*2のフェミニズム関連スレに突っ込んでいた感じだとこういう議論やその周辺を全く知らないで自己中に(正確には自分の所属するジェンダー中心にしか)物を言わない人ばかりだった訳で(あの掲示板で書いてる人たちが成田世代のラジフェミ=一番頭が固くて他人に不寛容な人種の筋なのか?)
(たぶんつづく)
ジェンダーフリー
この息苦しさの解消になるのならいいのですが、ジェンダーフリーが女性もこの息苦しさに巻き込む形になりはせぬか?と危惧する訳です。
特に「男女共同参画」と言う日本での枠組みが右派との妥協の産物で、新自由主義経済的な生産力としてに女性を巻き込む「オマケ」として女性の地位向上を狙うような代物に成り代わってるように私は思うし、そういう中でだれが幸福になるのだろう?とか思うのですよ。
結局、人の幸福も生存権も金に換算した上でその多少で生活での行為の貴賎を序列化したり、その基準が「カネ」ではなく保守主義的な「家族」「モラル」に置き換わってやっぱし序列化したりしてる所からジェンダーフリーの取り組みがどれだけ決別できるか?と言う問題が出てくる。
現代という物が実は新自由主義や新保守主義に毒され過ぎた価値観によって多くの苦しみが生まれている物だとしたら、そこから「フリー」になる事の方が優先されるべきなのかもしれないと最近は思うのですよ。
「働かない権利」をよこせ。
こう書いてしまうと単なる怠け者の言い訳的に見えてしまうかもしれないけど、現代日本が「労働するための生活」と主客逆転している以上、そのままでジェンダーフリーをやっても、多分人間の奴隷労働は楽にならないどころかどんどん酷くなるばかりで結局一部の超エリート階級以外の働く人々の間で多くの足の引っ張り合いを起こすだけなのではないか…その兆候はネオナチ「新風」による「在日特権を許さない会」「フェミナチを監視する掲示板」への大衆動員のされ方に出始めている…と容易に予想される訳ですよ。
近代産業社会というのが行き着いた先が、実はピラミッドの頂点の人にのみ人格を与えて、その他は数でしかない・生産性や収益などの数値の上げ下げの要素でしかない。人格を認めていない。と言う物である事がこの十数年間に明確になってきてる現代では、労働(賃労働)を行わない・もしくは自己管理してごくわずかしか働かなくても、国家や資本から金銭的な報復を受けない権利の実現こそが実はジェンダーフリーを実現する鍵になるのではないかと思います。
働かない権利の確立なくして、ジェンダーフリーは実現しない。
と思うんですが。
細かい話をするとジェンダーフリーへの反発と言うのが保守・復古主義側の草の根レベルでのFUDによる物以外に、実は「我々がこれだけ苦しい思いをしてきてるのに、まだ我々を苦しめるのか」と言う主に男性労働者・ニート…「恋愛弱者」などと呼ばれる…の感情的でなおかつあながち間違ってもいない反発も働いてると思うんです。
最低でも私より後の世代に取ってはフェミニスト的なやり方と言うのは、実は男性的な男性を抑圧する装置として機能してきている部分がかなりあります。
指弾される男性の側で、そんな指弾など屁の河童。とばかりに女を漁って差別的にやることが楽な人と言うか「恋愛強者」はフェミとかジェンダーフリーなどあってもなくても同じ*1的に思ってるしそこはかわらない。
しかし、その他大勢の非常に慎重で弱気である人々・特に男性はどうかといえば、思春期にはフェミニズムが暴れていて男性と敵対していて、その尻馬に乗っていた女性から散々(精神的に)痛めつけられた。その上で社会性とは会社で波風立てずにやるスキルであると叩き込むために管理教育で締め付けられ管理されていることにとことん鈍感となり生きる力を奪われた。
そういう状況下で、バブルが弾けて企業が採用を控えた所にタイミング悪く女性の雇用促進されたものだから、一定割合の男性はその雇用からハジキ飛ばされ・雇用された男性も少なくない一定割合が女性と対等な関係を作る以前に、労働者として=人間として女性から見下されてると思い*2、そのまま卑屈であるのが当たり前になった。
弱者男性階層の悲惨さに付け込む反ジェンダーフリー勢力
このような状況下で「さらなる男女平等を」「女性は相変わらず差別されている」と動いても大半の弱者男性からは「何を寝言言ってるんだ?こちらの方がよっぽど地位が低い!」と感情的に反発するのはあたりまえです。なぜならば、ジェンダーフリーを政治的に進めた人たちというのは女性の中でもエリートでフェミニストで基本的に上から目線で物を言う。そういう人たちが男性は上から目線だ差別者だと言い放って、個人の断裂を左の側から促進してきたという歴史認識をもたざるを得ない程度には女性から受けたトラウマは深いにも関わらず、そんなトラウマなど自己責任だ・労働者としてお前が至らないからだ。と言い放つ傲慢な女性たちがジェンダーフリーを最も強く推進してきたと言うパラドクスがあるからです。
その上で、状況を整理することも男性に語りかける努力も放棄しつづけるフェミニズムの中の人を尻目に右翼的なイデオロギーからジェンダーフリーを潰し古いイエ制度に縛り付ける事でこの産業社会をより強固にしようという人々が取り入るように男も・そういうエリート女性についていけない大多数の女性も搦め捕っていく。