月よお前が悪いから…のアーカイブ

http://d.hatena.ne.jp/artane/ がサーバの関係で消えるようなので、アーカイブします。基本更新しません。

児童ポルノ禁止の動きとグローバリゼーション

児童ポルノというと、如何にも小学校低学年程度の子供が大人に犯される映画や写真であるかのように思われがちですが、しかし、18才以下の淫行やセルフヌード・援助交際なんかが全て処罰対象に挙げられており、今週末から国会で自民案と民主案が審議に入る「改正」案ではこれらを偶然単純所持していた事への処罰や絵やアニメなどの実際に被害者がいない物を取り締まることの是非が取り上げられます。

さて、その「先進国」であるアメリカでは既に絵や小説などに「児童ポルノ」の取り締まり適用範囲が拡大しており*1、既に、日本の漫画を収集している人が日本から輸入したときの税関チェックで逮捕される事例( http://wiredvision.jp/news/200905/2009052923.html )や電子メールで架空の人物を使ったロリコン小説を州を跨いで電子メールで送付した事によって逮捕され・その手の漫画を所持していた事で罪を加算されそうになっている人が控訴裁判所で有罪とされて連邦最高裁に送付される見込みになっています( http://wiredvision.jp/news/200906/2009061923.html

*1:イギリスなどのアングロサクソン諸国やフランスにも…

後者の記事について少し要点を引用しておきます


「猥褻な日本マンガ」+「創作物をEメールで送付」で20年の収監

2009年6月19日
David Kravets

電子メールを介してわいせつな性的空想をやり取りするのは、米国では罪に当たり、合衆国憲法修正第1条による言論の自由の保障が適用されない、という内容の米連邦控訴裁判所の決定が15日(米国時間)に下った。決定に際しては判事の1人が強く反対しており、おそらく最高裁判所に持ち込まれることになるだろう。

連邦第4巡回控訴裁判所は、バージニア州の男性、Dwight Whorley被告の再審請求を10対1で棄却した。この刑事裁判において同被告が有罪判決を下された罪状のうち2つは、米国の裁判史において初めてのものだった。1つは、わいせつな日本のマンガの所持、もう1つは、ポルノ的な創作物を執筆し、それを電子メールで送信したことだ。

連邦第4巡回控訴裁判所のRoger Gregory判事(下の写真)は、今回の判決に関して、「個人の考えへの政府の規制」に懸念を示しており、最高裁がこの事件を取り上げて決定を覆すよう主張している。

同判事は、「個人的な空想を、その内容に同意している他の成人に対して私的に通信したという”被害者のいない犯罪”に関して有罪にする」ことに関して異議を唱えている。
(中略)
さらに驚くべきことに、検察は、既存の別の法令についてもWhorley被告を罪に問うた。これは「(陪審員が判断するところの)わいせつで、みだらで、好色で汚らわしい書籍、冊子、図画、映画フィルム、書類、文書、手稿、印刷物など、品性を欠いたあらゆる品目」の所持を違法とするものだ。

Whorley被告の場合は、児童の絡む性的な空想を記述し、それをインターネット上の同好の士に電子メールで配布したことが、この法律に違反しているとされた。なおWhorley被告の場合は小児性愛が問題になったが、この法律は本来、すべてのわいせつ物に適用される。

3人の判事による委員会の昨年12月の判決では、マンガと電子メールの件は2対1で有罪とされた(PDFファイル)が、Gregory判事はこれに反対した(PDFファイル)。今月15日には、所属裁判官全員による投票でWhorley被告の再審請求が棄却されたが、Gregory判事は持論をさらに展開して声を上げている。

日本の児童ポルノ禁止法も思想犯取り締まりの口実へ?

今回の「改正」*1案では粘り強い抵抗によって処罰対象から外されていますが、自民・民主ともに取り締まり強化の立場から改訂作業に携わってる議員や支持団体からは「欧米並み」に児童ポルノを取り締まり・実在する被害者がいない絵やアニメ・大人が18歳未満に扮したエロビデオ*2であっても処罰すべき。と言う声が大きく、今回の改訂案が全てではありません。*3
既に、児童の健全育成を「目的」としたネット検閲=フィルタリングは急激に強化されており、その基準自体は警察庁が提供した基礎情報を私企業が選択・追加して企業や公共団体・学校などに提供され、「あんしんネット」などの形で一般家庭にも提供されています。
これはWEBの閲覧に止まらず「出会い系などによる被害か青少年を守るため」「犯行予告を取り締まるため」「著作権侵害を取り締まるため」と称して、その適用範囲をWEBへの書き込みや電子メールのやりとりへと無制限に拡大していっています。
つまりは、法的な根拠づけがあればすぐにでもアメリカと同等の検閲を行う事が出来るようにインフラ整備は整っている。
その上、現状のフィルタリングであっても、政治的な見解を述べることや宗教的な見解を述べることは、政党や宗教団体の公式ページ以外はその大半がフィルタリングで遮断される対象になっている。

これは、笑顔で・児童の保護を口実として実際の所は思想に関わるあらゆる情報の取り締まり権限を公権力に集中させて些細な中身であっても取り締まり・排除の対象としていこうという、正しくファシズムにつながる動きであると確信して言えます。

*1:くどいが、実態は改悪である

*2:別にAVのように本番などなくて高校生に見えるように(大人が)コスプレして色っぽい姿態をとっただけでも違法になる

*3:自民案・民主案ともに中身の多少はあれ取得を罪とする形で、ネットからの取得を著しく制限しようとしている…

ファシズムに加担するフェミニズム

この流れに、フェミニズム運動が非常に深く関わっている事はくどくなるけど批判的に述べておかないといけない。
児ポ法=「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」は、そもそも、アメリカや日本で起こった児童ポルノ問題をどう防止するかということから出た法律ですが、その中で日本の(右派)フェミニズム運動は犯罪的な役割を1990年代に担ってきました。
彼女らは、1998年に法案を日本で提出して99年にろくな議論も議会でされないままに立法化される事に対して非常に深く関わっていて、しかも日本では児童ポルノの取り組みが緩い・児童ポルノの犯罪者が西側先進国で最も多い。と言う事実に基づかないデマゴーグを国内外に発信してその取り組みを際限なく強化せよと突きつけつづけています。
これは、彼女らから見れば「子供を守るため」「女性の権利を守れ」と言う大義名分があるのですが、しかし、この事がファシズムの流れを加速し・より大きな人権侵害を容認し加速することについてどう考えているのか?
虐待された児童の保護や児童虐待の予防が児童ポルノ・買春の(警察による)取り締まりに偏重しすぎることによって実際の児童虐待が減らないどころか個々の事例については内容がより陰惨になってることについてどうバランスをとるのか?
こういう問いかけに対して、治安当局は当然ながら、フェミニズム運動の大半からは(思想の左右を問わず)返答も現状の改善に対する積極的な取り組み案も出されてこない。
取り締まり範囲の拡大と強化がマッチポンプ的に犯罪認知件数を増やすだけで実際に起こっている問題を何ら解決していないにもかかわらず、取り締まり範囲の拡大・強化以外の積極的な話は彼女らも思いつかないのでしょうか。

この状況は、児童ポルノとされかねない表現を作ったり享受したりしてきている若い男女とフェミニズム運動の致命的な亀裂をもたらしつつある事に…取り締まられるのは女性の「児童」を描写した「ポルノ」だけではなくなりつつあることを、女性の愛好者=BLマニアなどがうっすらと感じ始めている…なぜにフェミニズム運動の当事者たちは気がつかないのか?

右派であっても左派であっても、フェミニズム運動当事者が政治力を一定以上得てしまい、又その思想的実態が非常にクローズドであることや、特に1970年代〜1990年代初頭のラジカルフェミニズムがそうであったのですが、「進歩的な」女性の持つ男性憎悪に強く依存して思想的な勢力を拡大してきた*1 *2事の二つから当のフェミニズム運動の現場が脱却できない事が大きいように思います。

表面上は男女共同を謳っていても、女性運動の実状はそんなに変わっていなくて、フェミニズムに関わってる人とシビアな話になると男性憎悪というか不信というかのような意識とそれの裏返しにある女性上位主義が複雑に絡んでいて、男性の事情も何もないような形になっている。そして、そういうフェミニズムを比較的現実に適応している女性達は胡散臭く見ていて、しかし社会的規範の一つにフェミニズム的な物が組み込まれ・他の抑圧装置と同等に抑圧として作用している男性の側は非常に生きるための活力を失いつつある…「草食系」と言う言葉の現象面に見られる性や食や知識への貪欲さの喪失がいい例でしょう、一定数以上の割合でそういう無気力以上に無気力な人々が増えていることは、この軋轢の多い世の中を渡っていく方法なのでしょうがしかし危険ではないだろうか。

*1:70年代後半のウーマンリブ運動の書籍を読んでいると、「セックスとは男性が女性を屈服させる場」「結婚とは男性の征服欲を充足させる場」などなどの、当時の子供が読んだら大きなトラウマを抱えてしまう…実際、私がそういう所ある訳ですが…の文面が出ていて、当時から90年代前半はそういう思想に基づく運動方針が普通に取られていた。皮肉にもその流れを一定程度止めたのは従軍慰安婦問題であったのですが。

*2:追記:90年代頭の左派運動では、時たま男女間のプライベートに近いいざこざなんかも問題になっていましたが、その中で大概男性がつるし上げられるのですが、そこで女性の側・特にフェミニズム運動の人から男性が自己批判として要求される事は「自分が男根主義者であった」事。それが、いざこざを自分がやってしまった…それは女性を押し倒してしまったとか酔った勢いで女性に言い寄ったとか言葉がセクハラだとかそういう事なのですが…事を断罪されるに当たって女性側から要求されることであることが非常に多かった

地獄への道は善意で敷き詰められている

そういう側面からフェミニズム運動が日本社会に残している「成果」を見つめ直すと、ファシズム化に加担してきたことと個の孤立化を加速させただけなのではないか。と見えてしまう。
フェミニズム運動の人は非常に熱心であるし、その問題意識もけしてひくくはない。しかし、「最大多数の最大幸福」と言う視点から見た場合には非常に悪い影響しか及ぼしていない。
最低でも、マスコミを通じて流布・拡大していった「フェミニズム」運動(これが全てではない)は、その運動主体が80年代成田闘争で分裂した第四インター系の女性グループが主力の一つであった事が影響してか、女権主義というか「自分という女性を最大限尊重しろ」と言うミーイズムに凝り固まった人があまりに多かった。
最低でも、私が接触する機会の多かった1990年代初頭の左派フェミニズム運動に携わってる人は多くが第四インターの流れの人やその流れの思想書に感化されて運動圏に入った人が多かったとおもいますが、彼女ら、大抵自分しかない(^^;、よくても自分と周囲の女性で徒党を組んで・そこに従属するかそうでないかで敵味方を定義してしまう。
これは70〜80年代に党派的な理由で分裂を重ねた成田空港反対闘争の運動主体の人と初期フェミニズム運動の人が大きく重なることが非常に強く作用していると思っていて、良くも悪くも(80年の団結小屋レイプ事件はともかく)多くの分裂劇がセクト主義によって小さなボスが群雄割拠して派閥抗争となり・最後にはゲバルトを伴なった党派分裂となった。そういう対人不信の空気が蔓延していたからであっただろうと思います。
こういう人たちが特に90年代初頭のフェミニズムブームや宮崎氏事件でのオタクバッシングに乗じてメディアのメインストリームに上がり・その言説を利用する形で右派=矯風会統一協会などのキリスト教右派の流れを組む宗教と密着したフェミニズム組織の拡大にも大きく貢献した。

フェミニズム運動の不幸

そういう意味で、アメリカのウーマンリブ運動がいつのまにかキリスト教福音派と反児童ポルノの側面で融合しつつあるのと日本のフェミニズム運動の流れというのは非常に似ている。

フェミニズム運動の不幸は、実はその思想的な欠陥と人的要因にあると思っていて、
人的要因については既に長々と書いたので省きますが、思想的な欠陥とは初期のアメリウーマンリブ運動の時から共通していて、日本に輸入された時点で純化されたのですが、

  • 「男性であることの罪」が女権拡大とセットにされてきた
  • あくまでもフェミニズムに賛同する女性の幸福追求運動/思想であって、そこから疎外された女性や男性の幸福追求運動/思想へとなかなか止揚しない

この二点にあると思います。
フェミニズムが先鋭的である時はそれでもよかったのですが、しかし、既に社会に定着し始めて二十年近くとなると、個々の現場では先鋭化せざるを得なくなることがあるでしょうが思想の根幹や政治活動などの多くの人に影響を及ぼす場では先鋭化してばかりはいられない。

先鋭化して、それが政治の場で偏重されてしまう事で疎外され排除される人をどう見るかが重要になる。
今のように安易なミゾジニーを煽り・又は無気力な人間を量産する抑圧に加担するフェミニズム運動のあり方というのは明らかに間違っていると私は思います。
このままでは、男女間と言うか「フェミvs非フェミ」の対立が激化するだけでは済まず、不条理な暴力の矛先が女性一般に向かう事すら一般化するでしょう。
この数年間に規制を厳しくしたことは、実は水面下での被弾圧者の暴力衝動を育成しているに過ぎない。
それと同時に、例えば「フェミナチを監視する掲示板」のようなネオナチ勢力が、現状への反感を取り込むための隙を多く作る事にもなっている。
そして、そこで培われた暴力はより大きな規制を産みだし我々をより強く抑圧する。
この悪循環は永久に続く無間地獄なのであろうか…是非とも、権利拡大と保護要求だけが至上課題であったフェミニズムから脱皮してほしいと私はここのフェミニズム思想者に訴えたいと思います。

箸休めに:反ポルノ思想に欠落してる視点

d:id:yuuboku:20090508 から引用:


■[人文社会]実際に性犯罪が増えるか減るかは(あまり)問題じゃないんだってば

女性への偏見と女性のモノ化のデススパイラル

もう一箇所見てみよう。


一般勧告第19条「女性に対する暴力」において、CEDAW委員会は「性に基づく暴力は、男性との平等の原則に基づく権利および自由を女性が享受するための能力を深刻に脅かす、差別の一形態である」ことを確認している。特に、「女性を男性の従属物とみなしたり、ステレオタイプな役割を持っているものとみなすような伝統的振る舞いは、暴力や抑圧を含む広く蔓延した行為を維持する……このような偏見また行為は、女性を囲い込むまたは支配する形態としての性に基づく暴力を正当化しかねない……これらの振る舞いはまた、ポルノグラフィーの蔓延や、女性を個人としてではなく性的な対象として扱うような描写またそのほかの商業的営為を増長するものである。これらがさらに性に基づく暴力を増長している」とコメントしている。

「女性を男性の従属物とみなしたり、ステレオタイプな役割を持っているものとみなすような」行いこそが問題視されているのである。平たく言うと、女性への偏見→女性を性的なモノとして扱う描写→女性への偏見→……というデススパイラルが懸念の対象である。この悪循環のプロセスで、女性に対する性的暴力が軽んじられたり、ないことにされたりするのが恐ろしいのだ。これは、「レイプするゲーム→影響されてレイプするようになる」などという素朴思考では決してない。

このあたりを踏まえないで議論しても、おそらくは空回りのままだろう。
まとめ(になってない)

  • 人権団体の人たちは、「ポルノグラフィーによって直接的に性犯罪の頻度が上がる」ことを心配しているというよりも、「ポルノグラフィーによって女性への偏見(女性を性的なモノとしてとらえる)が再生産され、女性への暴力が軽く見られる社会情勢がつくられる」ことのほうを心配している(んだと私は考える)
  • なので、性犯罪の発生率を反証として取り出すのは、得策でないかもしれない。「日本では女性への偏見が根深く、実際には被害に遭っている女性たちが声をあげられないでいるのだ」という再反論もありうるからだ。
  • さらに言うと、これからポルノグラフィー擁護論を展開する際、それが「性犯罪を惹起しない」ことを立証するだけでは不十分で、「女性に対する偏見・ステレオタイプを惹起しない」ことを立証する必要があるだろう。これは極めて難事業であることが予想される。

確かに、フェミニズム運動もその根底にある旧来の(後進的な国家地域での)男女関係と言う物はそうでしょう。
しかし、現代の日本もアメリカもそんなに単純ではない。男性の女性に対する(ステロタイプな)この様な視点と女性が男性に持つ視点という物が極めてトランスペアレンシーになりつつある。
詰まりは、

  • 女性が男性を所有する傾向も強まりつつある*1

そう考えると、このような人権団体の認識は非常に浅薄で表面的であるようにすら見える。
我々が抱え・後進国に押し付けている病理とは、実はもっとメタに性別や嗜好を越えて捉えられなければならないのではないか?
この場合に限らず、グローバリゼーションに代表される資本主義の進歩は要は人間のモノ化・カネ化を究極の更に先まで推し進める事がその形態である訳で、ポルノグラフィーが資本主義的であるからそのように「女性をモノ化」しているのみならず、我々の・男性女性問わずそれぞれの関係性自体が資本主義の進化によって/専ら資本側の要求によって一個のモノへと還元され続けてる事が一番の病根ではないか。
つまりは、ポルノグラフィーはその病根が露呈した一表現に過ぎず、これを取り締まっても何ら事態は改善しない。逆にそこに付きまとう道徳の押し付けや暴力の禁圧はより大きな暴力を起こす為の芽にしかならないのであって、事態を悪化させる新たな病根になりはせよ事態を解決する特効薬には絶対になり得ない。

詰まりは、この、フェミニズムウーマンリブ運動が急速に前進したのと期を一にして一期に進んだ資本主義の高度化・無制約化*2にこそ全ての病根があり、そこを解体・改善しないことには幾ら表層に現れたポルノグラフィーを取り締まっても無駄どころか目の前の抑圧が増やされた男性・女性によって社会の破壊衝動はより過激化するだけである。そう思うのですが。

*1:特に精神を病んだ人においては(勿論病んでいなくとも)そういう関係性からDVを起こす人も児童虐待を起こす人も認知が増えつつある

*2:新自由主義経済思想とは、資本の無制約な自由への承認要求であって、個の自由を促進するものではない・資本の無制約な自由の為の生贄とすることをいとわないものであると私は定義している